140803 綾歌の家



建築設計を営む友人と話していて、「正しい、だけじゃ面白くないよね」という話になった。身体に優しい自然素材を使い、四角いプラン、機能性に優れ、危なげのない寸法と納まり、オーソドックスな安心設計。ケチをつけるところは全くないけれど、設計者の顔が見えない。この資本主義社会において他者との差異を付けないと商品価値がないよ、とかいうつもりは無いけれど、設計者として見て面白くない、と感じてしまう。なぜか?

設計していると、無数の選択をしていくことになる。普通は(一般的には)こうするけれどあえてそうせず、ある意図を持って違う形を選択することもある。それはそこに身を置いた時の感じ方をある方向に導きたかったり、その建築においてある種の統一感、秩序を持たせるために行われる。人によってそれが全体の構成だったり、細かなディテールの選択であったり、素材の選定、切り替えだったり、その対象の違いはあれど、同じ設計者としてその普通じゃなさに「そうするよね」と共感できる箇所を見つけたりするとと嬉しい。それが何十年、何百年前の設計者によるものだったりすると、時空を越えた気がして身震いしたりする。

普通じゃない、と感じるのは、設計者の意図が明確に現れ(すぎ)ている所だと思う。それが上手くいっている場合も、逆の場合もあるけれど、そういう場所があると設計者の顔が見える。その結果に善し悪し、好き嫌いはあれど、その意図の密度が、自分にとっては建築の善し悪しのひとつの指標になっている。密度が高すぎると緊張感がありすぎたりして、そのさじ加減やバランスも重要なのだけれど。

その観点で小林久美さんの処女作、綾歌の家を見ると、まず方形屋根の頂点の位置が真ん中からずれているのが目に留まる。平面図を見ると、6間×3.5間の長方形の長手を三等分して、ひとつを玄関と水回りに、残り2/3を上下に二等分して、半分を寝室と子供部屋、残りを半分が土間の居間にした、とても明快な構成になっている。その長手三等分の2/3の位置に頂点が来るようにずらされ、それに合わせて、居間の上部だけ唯一吹き抜けた、漆喰塗りの背の高い空間になっている。

その居間の白い空間だけ出隅の納まりも他と異なり、わざと枠を奥に入れて、出隅まで漆喰が塗り廻されている。他の部屋は全て天井高さ1950とかなり低く抑えられているので、その抑揚が効いてか自然と腰が居間に落ち着く。天井高さ一杯に開けられた網戸付きのポーチの掃き出し窓からは、深い軒に切られた光が、何度かバウンドして隣の居間へ入ってきて、ぼんやり明るい。居間の窓際に開けられた南向きの開口部は腰掛けられるように広縁になっていて、窓から入る外光が、これまたバウンドして白い吹き抜けた部屋を明るくし、その高くなる天井の方へ向かって自然に腰掛けてしまう。

居間の一面だけ垂れ壁がセットバックしているところは反対側の子供部屋のロフトになっていて、二つの机と二つのベッドがジャングルジムのように入り組んで収まっている。子供心に楽しいことが容易に想像できる。寝室に開けられた北側の窓は、換気窓とピクチャーウィンドウに切り分けられていて、こんもりしたきれいな稜線の山を真っ正面に見据えている。

素材を見れば、居間の漆喰、床壁天井に外壁や家具にまでふんだんに使われた杉板、建具や枠材の白木、それくらいしかない。異様に種類が抑えられている。外から見ても、見えるのは杉板と軒先にちらっと見える屋根の鋼板だけで、勾配も緩いので屋根も見えず、ベントキャップも軒裏に付けられており樋もないので、金物の類いが全くなくすっきりしている。

綾歌の家では、等分割にきれいに構成されたプランと異様に抑制された素材の種類という、とても端正で最小限に絞られた計画をベースに、少しだけ屋根の頂点をずらし、その下にある居間の造作を他の部屋と切り替えた、その操作の振れ幅に小林さんの設計者としての顔がよく見えた。四方に建物のない開けた敷地にもかかわらず(だからこそか)、最低限だけ切り取られた開口部の周到さと、天井高さ1950に絞るスケール感覚によって、住まう家族の生活のサイズにピタッと填まるような器として丁寧に設計されていた。そしてそれは設計者観点から見ても、他に大勢いらっしゃったご近所の方の振る舞いを見ていても、成功していた。それだけではなく、手作りのトイレ錠や、建具にミラーをはめた洗面台、入り組んだ子供部屋から鍵付きのお風呂の網戸まで、配慮に溢れた設計も枚挙にいとまがないほど散りばめられていて、その思考の密度にも感心させられた。

さすが、正しいだけじゃ面白くない、と頷いてくれるだけのことはあると思った次第です。



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