どうも、松本です。
引き続き、発売中の建築ジャーナル12月号に連載記事第二回が掲載されています。
個人的には布野さんと満田さんの連載がおもしろい。
よろしければご覧ください。

以下原稿の文章のみですが転載します。

 インドというシステムがない(もしくは別種すぎて認識できない)国からヨルダン・トルコと西へ、システムのある国へ入っていく。ローマに着いた時には知っている世界に帰ってきたという安堵感さえあった。天気も良く夕暮れの空は澄み渡り、テルミニ駅前の賑やかさは祝祭感に溢れていた。そこからヨーロッパ怒濤の建築巡りが始まる。今手元に残ったリストから実際に巡った建物の数を数えてみたら、延べ377件の内7割がヨーロッパのものだった。全体では1日平均1.5件がこの3ヵ月半は2.5件の計算になる。忙しいはずだ。

 各国に一人は第一に見ておきたい作家がいた。イタリアのスカルパ、フィンランドのアアルトといった具合に。彼らを中心に見て廻った。建築を実際に見に行って良いことの一つは、作品集で眺めていた建物を引いて見られることだと思う。単体で奇異に見える物でも、とても景色に街に馴染んでいたりする。ここだからこそと思える(無論そうでないものもたまにはある)。イギリスのフォスターも、オランダのMVRDVも、あぁここだからできたのだなと、とても地に根ざしている感があった。当たり前と言えば当たり前だが、現代建築でも密接に文化や気質と結びついている。

 そんな中、最も見る前の予想を裏切ってくれたのはミラーレスだった。作品集で見ていた時の過剰な操作といった印象は不思議になく、どれもとても豊かな空間だった。自分も含め日本人からはいくらスタディしても絶対に出てこないであろう線を一気に暗闇から掴み取って、ほら?いいだろう?と見せつけられているようだった。天才とはこういうものなのだろう。表れ方は異なるがアアルトやシャロウンの建物を見ても同じ想いだった。条件から演繹的に導かれた形というよりも、センスと言えば元も子もないが、グッと掴んでサッと置いた形がたまたまとても良く出来ていた、という感じ。逆に言えばそこまで自ら出てくる形を信じられる点に驚かされる。感嘆する建築には思考の密度があるのだが、彼を含め巨匠と呼ばれる人々の建物にはその多くに溜息が出るような密度があった。

 また、違う意味で期待を軽々と越えてくれたのがOMAだった。まず、圧倒的に楽しい。角を曲がると新たな発見がある。一般的な建築の作り方は思考が収束していく方向にまとめられていく(と思う)が、彼らはどんどん拡散していく。どう見ても作る主体が一人でない。わざとまとめることを放棄しているように見える。放棄しているメタ主体がコールハースということなのか。また、自分のような同業者でなく一般の利用者にとっても、とても使い易くできている点もすばらしい。写真やプランでは複雑そうに見えるが、まず迷わない。建築的要素を駆使して向かうべき方向が本能的にわかるように作られている。

 しかし、目まぐるしく国を巡る中で個々の建築よりも心に残っているのは、今やEUとして統合されつつあるにもかかわらず、各国の異なる文化の頑強さによる街やインフラ、人や食べ物の違いだった。加えて、ヨルダンやモロッコといったイスラム圏の印象は予想を軽く覆してくれた。ヨーロッパの国々よりも人々は親切に迎えてくれる。街中で食事を取っていて、道端で道を尋ねて、何度「ウェルカム!」と言われたか。モロッコの列車内で大学生とコーランについて話を交わせたのも思い出深い。遠い文化ほど実際に見てみないとわからない。少し名残惜しさもあったが、既にオーバーステイしていたこともあり、当初の予定から二週間遅れてNYへと大西洋を渡った。



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